2010年9月26日日曜日

そばの花

伊那谷の南北を縦断する幹線が主なるこの谷の移動の動脈だが、多くの通過交通は中央自動車道を通り抜け我々も便の良さから利用してしまう。だが、子供達がそれぞれに生活をはじめ平日の仕事から離れれば自由に時間を使う事が出来る我々夫婦には、あえて一般道を軽自動車で移動して、今まで近くを通りながらも行った事のない足下の様子を見るのも新たな発見が有って楽しい。
飯島町道の駅から下段の国道へ下りる道中、妻が傍らに白花の咲くそば畑を見つけた。幹線からそれ細い農道を目的地へ向け回り込んでいくと、住宅の開発が進む一画にそばが植えられ、見事な花を咲かせていた。昨年中川の赤そばhttp://wadanoko.blogspot.com/2009/09/blog-post_28.htmlを見に出かけたが、個人的には赤よりは純正の白の方がそばのイメージがわき、秋晴れの青空には白い花がよく似合うと思う。住宅地の裏側で遠く南アルプス塩見岳をバックに咲く白一色の小さな花はここで生活する老若男女を豊かにしてくれる気がする。

これぞ農家のスーパーカー 軽トラオープン

もう20年ほど前になるが、竜東のとある処で見通しの悪い交差点を曲がるとヌッっとこの軽トラに出会ってビックリした事がある。それが私のこのオープンカーとの初めての出会いだが。小雨の中この車に果樹農家のご夫婦と思われる2人が並んで座り突然現れた姿は正に意表を突く光景だった。今日は竜西の山麓線を縦断し、山の様子を眺めながら走ったのだが、このスーパーカーの出現に喜びを感じた。この車オープンにする事で果樹の枝の下をくぐり抜ける事が出来る、さらに四駆となれば多少の傾斜畑でも十分駆動力が有る、私はこの車に四輪チェーン装着でぬかるむ傾斜畑を果敢に上る勇姿に遭遇した事もある。ただ、この手のオープンカーで大切なのは旧サイズの小型である事だ。軽も規格の変更で排気量も増加し、さらにはワイド化したが大切な果樹はやたらと植え直しは出来ない。樹間を通り抜けるにはこのサイズが必要なのだ。おまけに荷台はコンテナ搭載時にベストマッチの寸法に出来ており、この手の使い方には軽トラのワイド化は真に実用性を無視した開発にほかならないだろう。勿論ナンバープレートは外され果樹園内だけの立派な農業耕作機だ。

2010年9月25日土曜日

イメージセンサークリーニング

デジ一所有者のある程度こだわる方ならどなたでもご存じ、イメージセンサーのゴミ。特に風景を絞り込んで白一面や青空を撮り込んだときに、PCで見て発色は良いのだがゴマ点でがっかりする。こんな経験は有るはずだ。一頃のコンパクトデジタルカメラから、小型でおしゃれ、どなたでも使えるデジタル一眼レフが発売され所有者は激増の傾向にあるのだが、避けて通れないのがこのゴミ問題だ。多くの方が勘違いされているようにその機械の構造からするとコンデジに比べるとデジ一はいたってシンプルだ。機能、使い勝手からするとデジ一の方が格段に上だが、レンズをマウントから外せば肝心要のイメージセンサーは丸裸で鎮座する。これではレンズ交換の度にゴミは舞い込むし、それが嫌でレンズ交換をしないのならデジ一の意味がない。ただ、このゴミはレンズ交換の時だけでなくメカニカルダストの発生、密閉されていてもカメラボックスの中で発生しイメージセンサーにこびりつく。したがって、新しいから安心ではない、メカダストは新しい内ほど発生する。
そんな中、本日は所有するデジ一の一斉清掃を試みた。結果はすっきり一新、クリアな状態になったのだが、まず失敗を想定して一番の旧型機でチャレンジ、湿式、乾式それぞれの方法で試みて独自の方法を生み出す。個体の固まったゴミであるならば乾式で十分取れるだろう、だがやっかいなのは水分を含んだシミ状の汚れだ。これは乾式では残る可能性が大きい、事実取れない汚れが残ってしまう。これには湿式が一番。拭き取るようにすっきり取れる。独自の方法は湿式と乾式の組み合わせ、湿式で片方に寄せ、それを乾式で取り除く。驚くほどきれいになる。それぞれのメーカーでサービス、一部無償、一部有償で行っているが確かに故障を招くのであれば託すのが正解ではあるが、そのための輸送費、不都合を考えれば自己責任で行う事の方が遙かにエコノミーだ。
ただ、気をつけなければ行けないのはこれはデジ一の宿命で避けては通れない、その上このデジ一を普及すればこれに対処すべき方法をメーカーによって樹立する必要が有るだろう。

2010年9月19日日曜日

美ヶ原高原

紅葉までの端境期、連休は娘のところへ出かけようか親心としては気になっていたのだが、と言っても娘はまだ信じられない夏休み中。気にするのは親ばかりでとっとと北海道へ旅行に出かけてしまった。そこで妻と相変わらずの二人旅。前々から気になっていた美ヶ原高原「王ケ鼻」へ出かけた。行き方はいろいろある、西側にタッチして行く方法もあれば東側にタッチする方法もある。王ヶ鼻は東の突端だから東にタッチ、行き止まりの自然保護センターまで車で登りそこからはひたすら歩く、
川村高弘の真冬の美ヶ原に感化されての現地確認だ。当然ながら360°の展望、北・南・中央アルプスはもちろん富士山までもおさめることができる。王ヶ鼻の石仏は何ともその場を醸しだし、その足下の岩は明らかに堆積岩が斜めに隆起した千枚岩、もろく一枚一枚河原のようにはがれ落ちる、北アルプスは大好きな槍を確認できた、八ヶ岳は蓼科山から赤岳までその全貌を見られる、残念ながら富士の姿と浅間山、御岳を望むことはできなかった。最近こんなに歩いたことが無かった私は、
途中から子供時代の遠足の疲労感にも似た股関節の疲労感を感じながら美しの棟半ばにして引き返してきたが、我々よりも十分老齢の方々が健脚勇ましく夫婦で快適にトレッキングする姿は、まだまだ中年にも達しない我々に日頃の運動不足をここぞとばかりに突きつけていた。当然ながら次回は東側山本小屋ふる里館からタッチする、そこから縦断して東の突端王ヶ鼻まで行ってくる。厳冬の冬では自身がないので春先まだアルプスに残雪が輝く季節をねらいたい。

2010年9月18日土曜日

下栗 の里

秋の紅葉シーズンを控え、あちこちと名所を調べているが、いずれにせよ自然の変化は時間とともに起こる自然現象でこちらの都合で待ってくれるものではない。こちらをねらえばこちらも同時進行ですべてを納めることはとうていサラリーマンには不可能な出来事だ。そんな中 日本のチロルと言われる 下栗地区へ出かけてみた。先週の赤石林道と信州の未知ランキング http://www.shinshu-dc.net/contents_osusume/ranking_lists.php の再確認だ。日本のチロルと名付けた方は間違いなくいるのだが、私には「日本のマチュピチュ」と表現した方がよほどしっくりいく気がする。この斜面に張り付いた集落はどう転んでもマチュピチュを思わせる。祖母がここ下栗の出身の私には特段世の中で騒ぐほどのところには思えないが、幼少の頃まだ道が無く車で行くことができなかった時代に…おそらく昭和40年代前半…徒歩で祖母の実家へ行った憶えがある。5月の連休にワラビを取りながらの思い出だ。道が開き車で行けるようになってからは、稲刈り後のワラを軽トラいっぱいに積んで届けた記憶がある。もう40年ほど前の遠い記憶だ。


さらに、その奥へ進むと遠山側の源流本谷川へ出られる。これもまたその頃の私の遠い記憶、北又渡のダムがまだ無かった頃、父とよく車でこの奥へ行った。釣りや猟の記憶の場だ。それから10年ほど経って大学生時代にアルバイトでこの地を訪れたときすでにこのダムの中にあの幼少時代の林道は水没していた、そして今日、すでにダムの堆水地はすでに土砂で埋まっており(砂防ダムであるから当然ではあるが)30年ほど前に見た青々とした水につかった林道は見ることもできなかった。

私の幼少時にはすでに林鉄もモーターカーの時代を迎えており、材木を運ぶ以外はモーターカーで人を運んでいた記憶が鮮明だ。水に満ち小鳥たちのさえずりを期待していった私には少々残念な現状であったが、よく考えてみればあの記憶から30年も経ってしまった事を改めて認めざるを得ない。

2010年9月12日日曜日

赤石林道

午後から矢筈ダムの水の様子を見に、高倍率レンズ1本で出かけて見た。午後もしばらく時間がたっていたので、日は傾いて幾分秋のせいか色も黄色味がかり水に写る木立の色は思うような色が出ていなかった。それでも、夏の名残…まだ十分厚いのだが多くの人たちがキャンプを行い、釣りを楽しむ若者たちが多くいた。矢筈トンネルの際にある滝の様子を見ようと旧道を上がりだしたのだが、先日まで出ていた通行止めの看板が無くなっているので滝は後送りにして旧道を上がってみた。もう10年ぶりになるが、父と軽トラで超えてカモシカに遭遇して以来、若い頃良く通った道、トンネルの様子はどうなっているのか?道中みちは十分整備されており、先日の災害の豪雨で崩落したと思われる場所もすっきりと排土が完了しており、1カ所道路自身が崩落しているほかはいたって快適な道路状況だ。
トンネルは健在、子供の頃必ず車酔いをしたこのみちは、自ら運転するようになってからは一つの関所、飯田から故郷へ帰るには安心感を与えてくれる存在だった。トンネルを抜け旧上村側に出ると、若い頃気にもしなかった山並みが目に飛び込んできた。気にしていないので勿論名前も浮かばないが、蓼科山を思わせるプリン状の山が池口岳、その右方向が鶏冠岳。標高はそんなに高くはないが、冬場の雨氷・樹氷への期待、その存在を明らかにする冠雪をいただいてからの南アルプスをチャレンジする価値はありそうだ。

2010年9月5日日曜日

遊就館

今週は少々ダウン、いわゆる暑気を食らったのか?ソフト・ハードとも調子が悪く期待していた割には体が動けずにお家の仕事に専念した。…と言ってもこっそり山の方へは上がったのだが、体調不良と暑さのためにカメラを構える事は無かった。そこで整理した中から、半年ほど前の話になるが、どうしてもあげておきたい「遊就館」の紹介を行いたい。
昨今「氷雪の門」http://www.hyosetsu.com/ の36年ぶりの上映が決まり、太平洋戦争ばかりがクローズアップされる日本の中にあって、その後に続くシベリア抑留は周知の事実だ。中国・韓国に何かと交渉カードで切られる我が国だが、終戦間際の旧ソ連のこの行為もお人好しの我が国にとっては大きなカードとなるはず、映画完成後国外圧力で上映がされなかったが、これを期に人間の愚かな行動をあらためて考えてもらいたい。
さて、3月の中旬に家族で行った東京九段の靖国神社にある歴史ある館。http://wadanoko.blogspot.com/2010/03/blog-post_22.html
歴史は古く明治時代から建築の構想が持ち上がり、太平洋戦争では空襲を受けて一部は消失したそうだ。館内に入るよりも先に、館外から一目瞭然なのが零戦。この零戦あまりに有名な日本の名機だが、その零戦の名の由来はマニアではない限り知られていないだろう。昭和15年が皇紀2600年、この皇紀の末尾数字の0を取って零戦と呼ばれた。根本的に艦上戦闘機、日露戦争以来の大砲ドカンの戦艦戦から空へ、航空戦に切り替わるかどき、空母が戦闘機を搭載してより近代戦に変わる時期のものだ。空母に搭載される艦上戦闘機はその前からも存在したが、ランディングギア=足が翼に格納されるのもこの機の特色だ。
もう一つがロケット特攻機「桜花」。 1.2tの火薬を搭載し体当たり攻撃を行う特攻機だ。人間魚雷「回天」も有名、特攻と言えば航空機による体当たりが承知のところだが、それ以前から特攻を目的とした武器も十分開発されていた。日本人の美学、生き様として「桜」に代表される言葉には表せない様相は人それぞれで感じ方は違うが、その時代を生きた人々の歴史の上に今を生きる我々がいる事は忘れてはならない。